大学院でひと通りの研究をかさねたのち、僕がBNCセンター・トキオ支部に着任したのは九月のことだった。
九月――北半球は季節でいえば夏だが、今年は異常気象だとかで連日さむい日がつづいていた。モスコー支部に行ったアリョーシャの話じゃ日中でもコートを手放せないありさまだとかで、それにくらべればトキオは冷夏といっても薄手の長袖シャツがあればすごせるのだから、ずいぶんマシだろう。
もっと夏らしい夏がある南半球のセンターに行きたかった、とアリョーシャは愚痴る。しかし彼のことだから南半球が冬になると、もと冬らしい冬がある北半球に移住したいと言い出すだろう。
そもそも南半球にはBNCセンターの数が少ない。それは南半球にBNCが少なく、センターのような大がかりな研究施設が不要だということではなくて、単に地球表面の陸地面積の割合のためである。火星産やその火星の衛星軌道上にある宇宙ステーション産の人々にはつかみがたい感覚だと言われているが、地球の陸地は北半球にかたよっているのだ。もっとも地球産の僕にしても日々、北半球へのかたよりを実感しているかと訊かれたら、無論、そんなことはないのだが。
アリョーシャのメイルの最後は、今度モスコー支部内で新設される帳票整理委員会について考えあぐねている、とむすばれていた。研究員の一部が、研究対象をBNCではなくて新人類と記載しようと提案し、物議をかもしているというのだ。
「そりゃBNCっていっても、いつまでも子供ってわけにはいかないだろうけど」
僕はひとりごちた。
BNCというのは、ここ二十年ほどさかんに使われている呼称でブラン・ニュー・チルドレンの略語だ。人類が地球以外の場所で子孫を残すようになって五世代目、この世で最初のBNCが火星で生まれた。
今から十年ほど前、どうにかBNC研究の基礎がきずかれたときには、BNC認定を受けた人のうちにはすでに二十代なかばの人もいたから、チルドレンという言い方はやがてなくなるかもしれない。僕個人としては、彼らをニュータイプと呼ぼうがスペーサーと呼ぼうがそれは一向にかまわない。
とにかく彼らは宇宙で産まれた子供たちだった。
生粋の地球人とくらべると身体的に弱く、神経過敏で、勘がするどいのが一番の特徴だった。だからはじめは神経症の一種だと思われていたらしい。精密な脳検査が幾通りも考案され、それらを試行錯誤でくり返すうち、ようやく彼らの脳の一部が特異に発達していることがわかったのだ。
BNCはまず火星の植民都市で、次いで宇宙ステーションで発見された。症例がどちらもローティーンの子供だったから、それが今もチルドレンという呼称になって残っているのである。
「ナナセ博士、そろそろ回診の時間ですが」
ちょうどアリョーシャからのメイルを読み終えたところで、硬質な女の声がひびいた。ハレマイエル博士である。
彼女は僕より三つ年上で、同じシャンハイ大学の後輩ということもあってかよく僕のことも気にかけてくれる。回診の時間にさそいに来てくれるのも、そういうわけである。
もっともハレマイエル博士の言うところでは、僕は齢のわりには『ぬけている』ように思えて放っておけないタイプなんだそうだ。
「今、行きます」
僕は机の上にひろげたままになっていた数冊の診療録をあわててかかえこみながら、彼女のあとを追った。
正直言うと『ナナセ博士』なんて呼ばれるとためらう。ちょっと前までは大学の研究室にいて、年輩の博士たちから『ナナセ君』と呼ばれ、かわいがられていたのだから、ためらって当然だ。
一度だけハレマイエル博士にそう言ったことがあるが、彼女はきれいに描いた眉を片方だけ器用にあげて、
「うちうちじゃ『ナナセ君』と呼んでもいいけれど、入所者との信頼関係を考えるとね、『ナナセ君』じゃ威厳が欠けるのではないかしら」
そんなふうにズバリと威厳がないと言われては仕方がない。それで結局、僕は『ナナセ博士』と呼ばれている。
入所者というのはこのBNCセンターが保護しているBNCで、繊細でむずかしい齢ごろの子が多いわけだから、まあハレマイエル博士が言うのももっともなことだ。この施設に入所しているのは、ほとんどが十代の子供なのである。
僕は医師を目指していて精神科の分野でBNCを知りそめ、あっさり外科の方から手をひいてしまうことにした。他界した僕の母が宇宙ステーション産だったので、それで気になったというのもある。
もっともBNCは五世代は宇宙産でなければならず、その五代目にしてもだれでもBNCというわけではないので、僕自身はBNCではない。BNCはスーパー・マイノリティーなのである。いまだにBNCは神経症の一種だと主張する学者も少なくない。
実際のところ、BNCセンターに勤めている僕だってBNCがなんだかわかっていないのだから、仕方ない。
回診は順調だった。
「ハルナ、調子はどうかしら」
「個別カウンセリングは午後でいいかしらね、ユウイチ」
ハレマイエル博士は颯爽と部屋をまわって、子供たちに話しかけている。よどみなく、的確に計算された回診のやりとりである。みごとなものだなあと思って感心しながら、僕はほかの研究員のあいだにまぎれて、だまってそのあとをついて行った。
ハレマイエル博士の担当するクラスでは、たとえば『数字当て』や『おはじき』といった子供の遊びみたいなものを通じて、入所者たちの能力を高めることに成功している。つまり透視力や念動力を、訓練によってBNC自らが制御できるようにしているわけだ。このクラスの卒業生のなかには政府の高官になったBNCもいる。それはひと昔前まではとても考えられないようなことだった。博士と入所者のあいだに一定の信頼関係ができている証拠でもある。
施設送りになるBNCの子供はたいてい、BNC症候群と誤診されて精神病院にはいっていた子供や、実の親兄弟から虐待されてきた子供が多いので、あつかいがとてもむずかしい。
だから博士たちの多くは精神科医や心理士の出身で、僕とはキャリアが全然ちがう。BNCセンターの主たる目的はBNCの能力を保護・研究し、高めることにあるのだが、僕はまだそのどれもできていない。
「さて、最後はシャオメイね」
入所者たちの個室をひとつひとつまわって、最後にたどりついた部屋の前でハレマイエル博士は一同を見わたした。シャオメイは三ヶ月前に宇宙ステーションからやってきた十五歳の少女で、とりわけむずかしい子だった。
だが、むずかしいからといって回診対象から除外するわけにもいかない。ハレマイエル博士はひかえめに扉をたたいた。
「シャオメイ、おはよう。今朝はどうかしら」
「早上好、ハレマイエル博士。昨日と変わりありません」
黒絹の長い髪を両肩にたらして、ほほえんだシャオメイは人形かなにかのようにきれいで、生気がなかった。
「『数字当て』のクラスに参加するという話は、今日はどうかしら」
「それも昨日と同じです、ハレマイエル博士。わたしは参加しません」
美少女がしずかに言っているだけなのに、そこにはたしかに博士たちを圧倒するなにかがあった。一般にBNCが世の人からうとまれるのは、こういう心理的圧迫感のせいかもしれない。かたちがはっきり見えるものではないので、よけいに始末がわるいのだ。
僕はそっとシャオメイに目くばせした。そういう言い方はよせ、と。
もちろんシャオメイは知らん顔である。
「いいわ、シャオメイ。『数字当て』はまたべつの日にしましょう」
少女のかたくなな態度に気をわるくしたふうでもなく、ハレマイエル博士はさっさと『数字当て』の話題をうち切った。それから僕の方をちらりと見て、
「でも、今日は昨日までとちがうことも用意してきたのよ、シャオメイ。あなたはまだセンターに来て日が浅いので、環境になれるまでにいろいろ問題があるでしょう。それで専属の相談員をつけたらどうかと思ったの。ねえ、ナナセ博士」
「相談員ですか、はあ」
突然話しかけられて、僕は拍子ぬけした応答をしてしまった。
「ハレマイエル博士、つまり、わたしの相談員をナナセ博士が担当するのですか」
そんな僕とは対照的に、シャオメイは実に堂々とした態度でハレマイエル博士に質問を返す。博士はもう僕なんか無視して、にっこり笑った。
「そうよ、シャオメイ。こちらのナナセ博士もセンターに着任して日が浅いので、一緒に等身大でものごとを考えられると思うの。どうかしら」
「ええ、そうですね。いいと思います」
あまりな急展開に僕は言葉をうしない、『池の鯉』みたいに口をぱくぱくさせるしかなかった。
回診が終わって博士たちが皆部屋から出て行ってしまうと、シャオメイはさっきまでとはうって変わった態度で僕をちょっとにらんだ。相談員のことをどうしてだまっていたのかと、そう責めているのである。
「知らないよ、相談員なんて。僕だって初耳だったんだから」
「本当かしら」
本当だよと、僕はむきになって言った。
先日、シャオメイの診療録に僕が書いた記録を読んで、ハレマイエル博士が「シャオメイになにかあたらしい訓練計画を考えなくては」と言っていたが、それがすなわちこのことだったのかと僕はようやく理解した。
「ハレマイエル博士もハレマイエル博士だよなあ。どうして僕に話してくれなかったんだろう。やっぱり半人前と思われているのかな」
「ナナセ博士、ヘンな顔」
僕のなさけない顔を見て、シャオメイは笑った。
「半人前でもいいじゃない。これでわたし、ほかの博士たちに無理に会わなくてもよくなるわ。こまったことがあったら、なんでも専属の相談員に話せばいいんだから」
「どうしてほかの博士たちに会いたくないの。皆、立派な研究者たちだろう」
「立派ってどういう意味。キライなものはキライなの。会いたくない。研究者なんてイヤ。面談の結果、対人恐怖症のうたがいがあるとか言って、わたしにあの人たちを近づけないでおいてね、ナナセ博士」
無邪気にほほえむ美少女に、僕は深いため息をついた。
シャオメイの遠い遠い先祖はシャンハイに根をもっていたそうで、シャンハイ大学に長くいた僕に、彼女が親近感をもってくれたのが僕らの友情のはじまりだ。遠い祖先の墓参りに、少女自身も一度シャンハイに行ったことがあるとか。
そんな宇宙産の六代目であるシャオメイは、宇宙ステーションで学校にはいる齢にBNC認定された。ごく小さいころから感受性の強い子だったらしく、親戚のあいだでも評判で、少女にBNC判定テストを受けさせるよう両親にすすめていたらしい。それでBNC認定後、宇宙ステーション内にあったBNCセンターに長くはいっていたのだが、三ヶ月前に彼女の入所していた施設が統廃合されることになり、この地球のトキオ支部に移ってきたのだ。
「あのねえシャオメイ、僕だって研究者なんだよ。僕のこともキライかな」
「あら、ナナセ博士はべつよ。だって半人前だもの」
「君も言うねえ」
たまらず、僕も笑い出した。シャオメイのこういうところは、すごく好きだ。
「ところで本当なの、ナナセ博士」
しばらく他愛のない話をしたあと、シャオメイは生真面目な顔をして切りだした。
「火星で六代目が叛乱をおこしたって」
言いながら彼女が僕にさし出した雑誌には『BNC暴徒・火星第四ドームを占拠』という派手な見出しがおどっている。
「シャオメイ、君、こんなものをどこで手にいれてるんだい」
「ナナセ博士、質問に答えて」
BNCに対する誹謗中傷は根が深い。だから僕はこの手のかしましい雑誌のいうことはぜんぜん信じないし、見もしない。
「ねえシャオメイ。言いたくないけれど、こういう雑誌に載っていることは大げさすぎて僕は信じられないんだ。あおるだけで肝心な中身がなにもないよ」
「でもBNC関連のニューズよ。研究施設になにか情報ははいってこないの。そんなはずないでしょう。火星の第四ドーム占拠なんて、ずいぶん大きなニューズじゃない」
「第四ドームは小さいんだろ、宇宙船の格納庫だったというじゃないか。格納庫を一部のBNCが占領したからって、それが大きなニューズなのかな。宇宙船のハイジャックなら話はべつだけれど」
「ナナセ博士ったら本当に半人前ね。社会的弱者だったBNCが、一部とはいっても立ちあがったっていうのが大きなニューズなんじゃないの」
言われて、僕は呆然とシャオメイを見た。
それは叛乱ではなくて、革命というのじゃないか。
「少し、調べてみるよ」
僕はものすごくいやな予感がしていた。
To be continued...